松代藩第六代藩主 真田幸弘(菊貫)の文藝

真田幸弘について

幸弘の紹介

真田幸弘略年譜

信濃国松代藩第6代藩主。元文5年(1740)2月18日(1月21日)~文化12年(1815)9月5日(8月3日)。76歳没。第5代藩主真田信安の長男、母は信安の側室・慈明院(伊東甚五右衛門の娘)。
幼名豊松、また幸豊。宝暦2年(1752)、13歳で父の死去にともない、家督を継ぐ。天明元年(1781)5月、幸豊から幸弘に改名。宝暦10年(1760)21歳で定子(正室・松平越中守定賢女)と結婚。
寛政10年(1798)8月21日、59歳で家督を養子の近江国彦根藩主・井伊直幸の四男幸専【ゆきたか】に譲り、隠居。官位は、従四位下、右京大夫、伊豆守、弾正大弼。子に真田幸専正室(娘)、井上正甫正室(娘)など。
官位は、従四位下【じゅしいげ】、右京大夫【うきょうだゆう】、伊豆守【いずのかみ】、弾正大弼【だんじょうだいひつ】

政治家・幸弘

幸弘の藩主の実績としてもっともよく知られているのは、恩田木工【おんだもく】を登用したことである。「宝暦の改革」と言われる幸弘の藩政改革は、藩主になって2年目、15歳の宝暦5年(1755)、恩田木工(40歳)を勝手掛として登用したことにはじまる。木工は、宝暦12年に没するが、質素倹約を旨とするその政策は、度重なる千曲川の氾濫や天明の大飢饉、浅間山の噴火等により財政がひっ迫していた松代藩の改革の中心となった。実際、幸弘の治世には、他の藩主の時代に比べてはるかに多くの倹約令が出されている。
なお、幸弘は隠居に際して、第7代幸専を補佐すべく柳沢監物【やなぎさわけんもつ】を御側役勝手掛に任命。監物は、幸弘時代の藩政改革路線をより一層強固に現実化し、法の整備を行い、職制改革、藩の沿革調査、兵権強化、文教振興、産業振興、荒地開墾と精力的に藩政を刷新していった。


幸弘の英知を伝える『日暮硯』(別名「鳥籠(とこ)の山彦」)は、幕末に至るまで何度も転写されて流布した。また昭和初期には山本七平がイザヤ・ベンダサンのペンネームで書いた『日本人とユダヤ人』では40数ページにわたって紹介された。

文人・幸弘

幸弘は、文武両道を奨励し、宝暦8年(1758)には城内に稽古所を設置、折衷学の菊池南陽【きくちなんよう】、徂徠学の岡野石城【おかのせきじょう】を招いている。安永8年(1779)には真田家菩提寺長国寺に千丈実巌【せんじょうじつがん】を招聘、文化8年(1809)には新たに学問所を設置し、朱子学の林単山【はやしたんざん】を招いている。これらが、後の藩校・文武学校の基になった。
幸弘は、菊貫・白日庵・攀月観・五白楼・天真園・籟月庵・吟松庵・象麿(丸)・吹旭・馬逸・寉阜など多くの雅号をもつ文人としても注目される。幸弘の和歌詠草、点取俳諧、家臣の漢詩文集、揮毫した書などが、真田宝物館(長野市松代)・国文学研究資料館(東京都立川市)などに数多く伝来している。
ことに菊貫の俳号による点取俳諧集などの俳諧資料は、質量ともに我が国最大級のものであり、文化的、歴史的、国語学的、文学的に高い価値をもっている。