松代藩第六代藩主 真田幸弘(菊貫)の文藝

真田幸弘について

俳諧宗匠

菊貫好みの点者

菊貫は、太初や雪中庵蓼太にも師事したが、江戸座の点者(宗匠)が、好みだったらしい。大名の参勤交代の際に、俳諧宗匠が途中までついて行ったり、あるいは出迎えたり、または国許に同行したり、という例もみられる。菊貫の場合、『青葉蔭』の旅に同行した立志(六世)と陸馬が、贔屓の宗匠だったようだ。柳沢信鴻の『宴遊日記』には、安永五年(1776)菊堂が、菊貫に招かれて江戸から松代へ行き1カ月ほど滞在し月見をしていることが記されている。
立志(六世)は、関氏で、はじめ梢月庵、のち青松庵と号した。立詠、得器の門人で、『誹諧五万才』初編(得器判、享和元)には「方円庵(得器)門葉」の補助者として名をつらねている。当時シリーズで刊行されていた江戸座の宗匠の点印や高得点の句を例示した点取俳諧のガイドブック的役割をしていた『誹諧觽【はいかいけい】』には、十二編(寛政七年)以後、二十四編(文政2年)までの諸編に断続的に掲載されている(加藤定彦編『俳諧點印譜』[青裳堂書店、1998年(平成10年)10月]「人物注記」参照)。
陸馬は、別号を若水庵という。二世平砂の門人で、はじめは皐月氏を称していたが、のち二世石鯨の養子となって岡村氏を称した。『誹諧觽』には、七編(天明四年)から三十編(天保二年)まで断続的に掲載されている(同上参照)。