松代藩第六代藩主 真田幸弘(菊貫)の文藝

点取俳諧集

大名俳諧

江戸時代中期から後期にかけて大名や旗本の間で流行した点取【てんとり】俳諧をいう。連句「百韻【ひゃくいん】」形式が主で、他藩の大名や家臣とともに、これに遊んだ。複数のメンバーで点数を競う場合、句数が多い方が、より公正な評価となって勝負が面白くなることを意識した結果、芭蕉がすすめた歌仙形式を採らなかったのだろう。

江戸座の点者

連句に批点を付けて収入を得る職業俳人を点者という。江戸座の点者は、8代将軍吉宗の治世であった享保末期には35名程いた(享保17年刊『綾錦【あやにしき】』)。それが、約40年後の明和・安永の頃には100名程に増え(明和7年刊『誹諧觽【はいかいけい】』、安永3年刊『家雅見種【かがみぐさ】』)、さらに40年後、11代将軍家斉の治世である文化年間には、120名程度(文化10年頃成『於之波奈嘉々美【おしばなかがみ】』)に増加している。約80年を経るうちに、3~4倍に増加したことになる。

大名俳人

宗因や芭蕉と交流した風虎(陸奥岩城平藩主内藤義概【よしむね】)、露沾(内藤義英)や元禄16年から元文元年までの資料が伝来する蘭台(肥前大村藩主大村純庸【すみつね】)が有名。菊貫(真田幸弘)と同時代では、花裡雨(肥後熊本藩主細川重賢)、銀鵞(姫路藩主酒井忠以【ただざね】)その弟の抱一(忠因【ただなお】)、米翁(大和郡山藩主柳沢信鴻【のぶとき】)など、大名俳人が少なからず存在して交流していた。
大名は参勤交代で江戸屋敷に居住する時期が長く、江戸座の点者たちのパトロン的役割を果たしていた。

 

*参考

◆伊藤義隆「真田幸弘と大名俳諧」(『文人大名真田幸弘とその時代』

http://www.sanadahoumotsukan.com/guide/book.php?g=3 )