松代藩第六代藩主 真田幸弘(菊貫)の文藝

点取俳諧集

俳諧師「菊貫」

俳号の由来

真田幸弘は、白日庵・攀月楼(観)・雙寉楼・五白楼・天真園・籟月庵、象麿(丸)・吹旭・馬逸・の号をもつが、俳諧では「菊貫【きくつら】」号を多く用いた。その由来は未詳。鬼貫号が「鬼の貫之」に因むとすれば、「菊の貫之」か。あるいは江戸座宗匠の菊堂に由来するか、今後の研究が俟たれる。

菊貫以外の俳号

白日庵 五白楼 象麿 馬逸 吹旭 寉阜 天真園 攀月観 籟月庵

俳諧への関心

菊貫が俳諧を始めた年齢は未詳。現存資料では、宝暦12年(1762)、菊貫23歳の参勤交代の旅を記した句入り紀行『旅つづら』の発句と翌年の歳旦句(寛政5年(1793)成立 菊貫発句集『水かゝみ』*)が最初期のものであり、この数年前から俳諧を嗜んでいただろうと推察される。
真田家は代々、俳諧を嗜んでおり、菊貫の父真田信安(正徳4年(1714)8月18日~宝暦2年(1752)4月28日)も、露翠と号して江戸座の俳諧に遊んでいた(『臥龍梅』)。俳号から、露沾―沾徳―沾洲の系統の俳諧に遊んだものと推測されるが、信安自身が書き抜いた『高点御書留落葉庵御筆』(真田宝物館と国文学資料館に分冊して伝来)では、江戸座の点者―沾山・湖十・貞山の選にかかる高点句を採録している。菊貫がどの程度父の影響を受けたのかは不明だが、伝来する800点余りの点取俳諧集をみると、父の代から交流のあった点者や独自の好みの点者も含め、当時の江戸座宗匠のほぼすべてを点者として迎えていた様子がうかがえる。

*『水かゝみ』(東京大学総合図書館蔵)半紙本1冊。杉雨(真田家家臣 御側役馬場広人)編・珠成(三日市藩第四代藩主柳沢里之)序。同書には宝暦13年の歳旦句「あら海を富士の鏡や初日の出」安永8年の春興句「嘘ついた人美しとけさのはる」等を収録する。

俳書からみる俳諧活動

蓼太贈文台

蓼太贈文台

文台裏書

文台裏書

菊貫の俳諧を現存する俳書から、仮に3期に大別をしておきたい。

Ⅰ期 宝暦12年(1762)~安永4年(1775)   初期
Ⅱ期 安永5年(1776)~寛政13年(1801)   中期
Ⅲ期 享和元年(1802)~文化13年(1816)  後期

Ⅰ期は、先に述べた俳書の他、点取俳諧集『菊の分根』(明和8・明和9〜安永1・同2年)が伝来する期間。連衆の数も、点者の数も少ない。

Ⅱ期には、大名や家臣から依頼を受けた菊貫が批点した記録『引墨到来覚』が多く伝来する。安永7年(1778)以降は、点者としても俳諧を楽しんだ様子がうかがえる。一方、この期に柳居門の高太初や雪中庵蓼太に師事し、蓼太系の俳書に入集する。安永8年には、蓼太から文台を贈られた他、蓼太が入集する天明3年(1783)の菊貫の俳諧一枚摺などがある。

Ⅲ期には、点取俳諧集『菊畠』がおよそ700巻が伝来する。また、文化年間(1804~18)の高点句を書き抜いた『俳諧引墨高点留』も7、8点伝来している。寛政10年(1789)に致仕した後、俳諧に専心したことがわかる。

現在判明している真田幸弘関連の文芸書を略年譜とともに年代順に並べると以下のようになる。

幸弘文芸書一覧(20130111)