松代藩第六代藩主 真田幸弘(菊貫)の文藝

俳諧一枚摺

歴史

最古のもの

存する俳諧一枚摺でもっとも古いとされるものは、元禄15年(1702)に嵐雪らの歳旦句を一枚摺(柿衞文庫蔵「元禄十五年歳旦摺物十二種帖」)にしたものである(ただし、これには挿絵がない)。

定着期

本格的に定着したのは、宝永から享保期(1704~1736)と考えられる。とくに注目すべきは、この時期に二、三色摺の挿絵を添えた摺物が、大村蘭台(肥前大村藩主)や江戸座の俳人たちによって制作されていることである。
江戸座とは、芭蕉の門人であった其角の流を汲む江戸の職業俳人たちが結成したもので、俳壇秩序の安定と点業(依頼された句を採点して報酬を得ること)の寡占化を目的とした宗匠組合である。そのパトロンは、大村蘭台を始めとする大名俳人たちであった(したがって、菊貫公が贔屓にした宗匠たちも江戸座の俳人たちであり、真田宝物館に残される俳諧資料のほとんども江戸座に関係するものである)。

俳諧一枚摺の本格化

日本で多色摺が本格化して錦絵が誕生するのは、鈴木春信が多色摺の絵暦を作成した明和2年(1765)であるとする説はよく知られている。しかし、俳諧一枚摺で色摺が試みられたのは、この明和より60年余りも早いこの時期のことであった。なお、最近の研究では、当時中国から舶載された詩箋(多色摺の挿絵をカット風に入れた用箋で、詩や手紙を書くのに用いられた)が、一枚摺や俳書の挿絵の多色摺に影響を与えたと指摘されている。
つづく元文から宝暦(1736~1764)、さらには明和から寛政(1764~1801)にいたる時期においても、柳沢米翁(大和郡山藩主)や真田菊貫(信濃松代藩主)など、大名俳人の活躍が目立つ。米翁は『宴遊日記』『松鶴日記』などの厖大な日記群を残しているが、そこにはしばしば摺物に関する記述を見出すことができる。また、明和期以降は、急速に多色摺の摺物が一般的になり、江戸だけでなく、上方でも京都の蕪村をはじめとする多くの俳人たちが積極的に制作に関わって、俳諧一枚摺は全国的に広まっていった。

隆盛拡大する俳諧一枚摺

享和から文化・文政期(1801~1830)、さらには幕末期(1830~1868)になると、俳諧はいっそう大衆化し、それに伴って一枚摺もより広範囲に受け入れられていった。酒井抱一(播磨姫路藩主の弟)や南部畔李(陸奥八戸藩主)が活躍したのはこの時期であるが、そうした大名俳人たちに限らず、多くの有名無名の俳人たちが積極的に摺物を制作するようになった。上方では大奉書を用いた役者や芸妓の御披露目や追善の摺物がさかんに制作されていることも注目される。
また、幕末期になると、細かな字で多数の句を載せる一枚摺が現れた。一枚に二百句以上の発句が摺られたものも珍しくはない。紙一枚のものではあるが、情報量としては、まさに薄手の俳書一冊分に匹敵する。こうした一枚摺が、それぞれの宗匠のもとで折々に出されていたことを考えると、俳諧人口の拡大、すなわち俳諧史で言う「俳諧の大衆化」の様相を具体的に見ることができて興味深い。

明治期

明治期(1868~1912)になっても、俳諧一枚摺の人気は衰えなかった。この時期、圧倒的人気を誇った柴田是真や文明開化の新風俗を描いた小林永濯らの活躍が注目される。また、技術的にも、発色の鮮やかな化学染料が使用されたり、石版摺のものが制作されたりするなど、さまざまな試みもあった。

衰退期

大正・昭和になって旧派の俳句が衰退すると、それに同調して俳諧一枚摺も漸減してゆく。それでも、現在確認できる最も新しいものは昭和16年(1941)の摺物であるから、戦前までは続いていたことがわかる。俳諧一枚摺は、元禄の末年から近代にいたるまで、じつに240年程の長きにわたって、多くの人々から愛好されたのである。