松代藩第六代藩主 真田幸弘(菊貫)の文藝

和歌集

和歌集

真田宝物館には、20冊余りの『和歌詠草』(写本)と、幸弘公筆と書かれた和歌詠草『花洛の草結』(成立年不明)及び、幸弘の側近中の側近ともいうべき岩下左源太(雅号・清酒【きよき】)編遺稿和歌集上下2冊が伝来する。また、賀集には、漢詩、俳諧と併せて幸弘の和歌を含む大名、旗本、家臣、親族、女中らから寄せられた祝賀の歌が収載されている。また、同館にはおびただしい数の短冊も伝来する。
膨大な俳諧関係書に比べるとその点数は少ないが、真田幸弘についての和歌ページにも記したように、若くして賀茂真淵、後年日野資枝に和歌の添削指導を受けていることからも、幸弘が和歌に不熱心だったわけではない。編年体で記される遺稿和歌集を見るかぎり、歌人としてすぐれていた甥である松平定信と年賀の応答をするなど、文人大名としての素養に見合った和歌活動を行っていたことがうかがわれる。

『花洛の草結』帙

『花洛の草結』帙

『花洛の草結』3冊表紙

『花洛の草結』3冊表紙

『花洛の草結』本文「心静酌春酒」「帰雁似字」各2首

『花洛の草結』本文「心静酌春酒」「帰雁似字」各2首

賀集の和歌

40歳以後70歳までの幸弘算賀集にも和歌が収載されている。これら賀集を編むために寄せられた色紙や短冊も、巻子本や雅帖として伝来しているが、特筆すべきは、幸弘48歳の天明7年(1787)に成った和歌を中心とした選集『ともづる』である。遊可の序によれば、この年の正月、松代の海津城の天守閣に番の鶴が飛来し七日間とどまったことを瑞祥として寿ぎ編集された上下二冊の賀集である。下巻の巻頭には定信が寄せた次の和歌があり、

かさねきて幾世経ぬらむ常盤なる松しろたへのつるの毛ころも

上巻巻末の幸弘の和歌、

田鶴のすむ千とせの松にもろ人のいやことの葉のみとりをぞそふ

と呼応している。この年、定信は老中首座に昇進しており、その祝意もこめられていよう。

師系等を示す歌集周辺資料

幸弘の和歌を賀茂真淵が添削した資料が国文学研究資料館に収蔵されており、明和6年(1769)真淵没以前に指導を受けたことが分かる。53歳の寛政4年(1792)の「和歌入門誓詞」(国文学資料館)が堂上家日野家への正式な入門を示すが、堂上歌人に接近したのは、これ以前だったろう。その仲介役を果たしたのは、「浅草院内御出入」(『橋立千種』はしだてちぐさ/賀集『はしだて』目録)の「ゆか(遊可)」で、ゆかは幸弘40歳の算賀集『にひ杖』に入集するほか、50年の算賀集には序文を記し、
60歳、70歳の算賀集にも歌が収載されるほか、ゆか宛日野資枝書状、「天真院様御歌 京都日野家より御引墨」(丑三月廿九日 二条家より来題 遊可方へ文通)の中包紙入り)が伝来している。「ゆか」を仲立ちとして日野資枝や二条家とつながっていたことがわかるが、
ゆかについては、未詳であり、特定するには至っていない。

定信との交流を示す歌集資料―文化五年(1808)正月 (岩下清酒編遺稿和歌集より)
定信ぬしより寿ふきの品かす〳〵たまはりしむくひに作り松をつかはすとてよみて枝に付ける今年定信ぬしも五十年なりけり
浅からぬ恵みいろそふ春に又君かちとせもいはふ一木そ
返し       白河少将
立ゐれは我もちとせを契はや君かめくみのまつの一木に