松代藩第六代藩主 真田幸弘(菊貫)の文藝

お知らせ

真田信繁(幸村)書状が出現しました!
★2016年7月6日から、真田宝物館(長野市松代町)で展示中です。

2016年7月5日 [ お知らせ ]

真田宝物館ホームページはこちら:http://www.sanadahoumotsukan.com/

大正18年(1590)執筆「信繁」自筆書状
〇天正十八年(1590)八月十日安中平三宛書状
〇426年前の執筆。
〇安中平三に名字を与え、加恩(領地や禄を与える)を約束した判物。

「信繁」の署名がある書状は、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い以後に書かれた6点の伝存が確認されているが、それらを含めても唯一「信繁」のみと署名する書状。 現時点では自筆書状と考えています。

伝来

・信之書状(5通〈内朱印状 2 通〉)、信吉書状(1通)、春堪介状(1通)、出 浦半平等二名連名状(2 通)、か(鹿)野外守宛智弁状(1 通)とともに伝来したこと から、安中家から鹿野家へ移管し保存されてきた素性の良いものと推察される。なお、真田信之・信吉らの書状は「安中作左衛門」宛。

〇形状
  • 礼紙【らいし】が付属、それに花押の痕跡が残る。判物として丁重に書き与えたものだろう。
  • 寸法が信之・信吉書状よりやや小ぶり、三つ折り(原形は八~十二折か)。
  • 紙質は、他に伝来した信之・信吉書状(判物)とほぼ同じ(ちょっと麁紙)。

自筆書状と考える根拠は用字と字配りから(比較する文書がないのが現状)

用字と字配りから信繁自筆書状と考えられる

用字・字配り(上掲図版参照)

ア 用字
  • 年号「庚刁(寅)」→「庚」の止めは右払いだが、左に廻り止まっている。
  • 安中の「安」の一点は余分で不要→右筆ならば書き慣れているので、こうした 書き方をしないだろ。→これらは、信繁本人の書癖ではないか。
  • 寅の異体字「刁」は、永正十五年(1518)北條氏綱朱印状でも使われているので、信繁は先行する宛行状等の文書によって文字と形式を覚えたのではないか。
イ 署名

信繁の「繁」は極端な崩しで誤読され易い。神沢杜口『翁草』(巻百五十七 「眞田左衛門佐信仍略伝」)は、光圀『西山遺事』に拠り「幸村は非なり」と呼称を正し、『続武者物語』にいう「左衛門佐信繁」に拠り、「仍」は「繁」と考察する。写本で伝わった「繁」の崩しを「仍」と誤って伝えた故に生じた誤解だろう。

ウ 字配り

半分に折って書いたのだろうが、下方が窮屈(「出置」が典型的)→右筆による文書ならば、書き慣れているので、こうしたことはないだろう。

資料との「巡り会い」の経緯

NHKTV「真田丸」を楽しく見ています。が、「信繁」書状との「巡り会い」は、この放映とは関係ありません。あれこれ検討した後、信繁書状とみて良いと判断したので「真田連句を読む会」の6月例会で発表しました。TV「小田原攻め」とほぼ重なり驚きました。

☆真田宝物館・国文学研究資料館等に収蔵される文藝資料を調査研究する一方、古美術商や古書店の方々に助けていただき、民間に出た真田関係資料の蒐集に努めた結果、巡り会えました。何かの縁ですが、なぜ426年前の書状が私に届いたのか考えています。

☆松代藩六代藩主の真田幸弘を中心とした真田文藝の研究を継続していますが、遅々たる歩み、研究業績といえるものはありません。以下、時系列的にまとめます。

1.松代藩六代藩主・真田幸弘【元文五(1740)~文化十二(1815)。76 才】の文藝の研究を継続

1990年頃 真田宝物館の俳諧・和歌・紀行文藝資料調査開始 書誌調査・写真撮影
2009年9月 真田文藝研究会、同11月「真田連句を読む」会発足(会員16名程)。 以降、毎月第三木曜日に「連句」(幸弘一座の百韻)の解読を継続。
2010年4月 科研費補助「真田文書アーカイブの構築及び松代藩第六代藩主真田幸弘の点取俳諧に関する研究」着手
2012年 松代藩第六藩主 真田幸弘の文藝ホームページ開設
2013年8月 真田文藝研究会→NPO法人信州古典研究所へ移行(2016年4月から任意団体)
2014年9月 真田幸弘公200回忌実施(於松代・長国寺)
2015 年 『日記』(松代藩主への通達を記録する日記)と共に上田の古書肆から求む03

2.信繁の連句への関心 慶長16年(1611)~慶長18年(1613)執筆 於 九度山

(極月晦日 木土佐守(木村綱茂)宛書状 尚々書き)
尚々御状祝着申候。いつも〳〵御床敷存計候。其元連哥しうしんと及承候。此方ニても徒然なぐさみニ仕候へとすゝめられ候かた候へとも、はや〳〵老のかくもん(学文) ニて難成候。可有御推量候。彼是面上ニて申承度計候。

3.信州内外の真田関係資料の蒐集

・古美術商、古書肆等からもたらされた主な資料
●「虫づれに」短冊 (幸弘短冊・奥方和歌 幅物):東京から
●「青葉陰」幸弘メモ等:長野から
●「菊貫点帖」:京都から
●「山寺常山」等書簡:須坂から

信繁自筆書状出現の意義と課題

☆今後、歴史学者・研究者が歴史的意義を見直す契機としていただければ幸いです。
☆本状を含め一連の書状等を真田宝物館の学芸員の方に研究していただきたいと願ってい ます。なお、現在、信繁書状は『真田家御事蹟稿』や『信濃史料』所載の翻刻に基づいて、 歴史学者から次のように評価されています。

■ 信繁による上野支配の一端がわかる(笹本正治氏『真田三代』)
■ 安中某と主従関係に入ったことを意味(井原今朝男氏「真田信之と真田信繁」(『歴史読本』56・12 2011 年)
■ (上田領内で)確実に家臣が存在していた(丸島和洋氏『真田四代と信繁』)
■ 小田原出兵に際し関東で軍事行動をしていたことを意味(平山 優氏『真田信繁』)

以下、疑問と私見-問題点

1.名字を下賜する発給文書は珍しいと思う。

①文禄三年(1594)信繁は秀吉の推挙で豊臣姓を下賜されたが、発給者は公家。
②名字を与える側の意識と地位はどうか。
③安中平三と安中作左衛門はどういう関係か。

2.信繁という諱(正式名称)と「左衛門佐」の呼称など

①「安中信繁」が「平三」に「安中」姓を与えたとする説(「真田信繁(幸村)の証人時代再考」(寺島隆史氏『信濃』67・5 2015 年)がある。当時、安中信繁という人が実在したかどうか。

②信繁が「従五位下左衛門佐」に叙任されるのは、文禄三年(1594)。これ以降は「眞左衛門佐」を通称として用いたらしい。姉・むらまつ宛書状では、「さへもんのすけ」と署名する。書状が敵に渡ったときの事を恐れての署名か。

③書風から「実直で飾らない」人となりがうかがえる、と思う。しかし、自筆かどうか については決定的な証拠を見出しがたいので、慎重にならざるを得ない。比較できる
信繁文書が少ないのは、徳川家にとって許しがたい仇敵として破棄されたからだろう。

信繁書状が、名も肩書きもなく、学力も財力もない者にもたらされたことに驚いています。 「史料(資料)が人を選ぶ」ことはなく、不思議な縁があったというほかありません。
本状を高名な歴史学者や地位のある歴史研究者にご覧いただき「御墨付」をいただきたい、と思ったこともあります。 しかし、門外漢であることを承知で発表したのは、このありがたい縁を大切にして、歴史学の専門家とは別の素人の視点から見ることが必要だと思ったからです。
それゆえ、誤解も少なからずあると思います。お教えください。

☆大名文藝が見直されつつあります。真田家も含めて、お武家さんは、「文武両道」だから こそ、継承・存続したように思われます。こうした面も見直していただきたいものです。

○2016年6月17日信濃毎日新聞にて取り上げられました。
http://www.shinmai.co.jp/news/nagano/20160617/KT160616FTI090018000.php