松代藩第六代藩主 真田幸弘(菊貫)の文藝

真田幸弘について

『国史大辞典』より

一七四〇-一八一五
江戸時代中期の信濃国松代藩主。恩田民親(杢)を登用して藩政改革を行なった。元文五年(一七四〇)信安の長男として生まれた。当時松代藩は財政が窮乏し、幸弘の父信安の代には新規登用の田村半右衛門による改革が失敗、宝暦元年(一七五一)百姓一揆により田村は失脚した。幸弘は翌二年十三歳で家督を嗣ぎ、同七年恩田民親を抜擢して藩政を委任、民親は四年余り専心努力したが、充分な成果をあげ得ずして同十二年に死んだ。民親の死の翌年には藩庫が底をついて、参覲の供の人数を減少した。明和元年(一七六四)日光名代を命ぜられた。この役は譜代大名が勤めることが多く、外様の真田氏がこれを勤めたのは、幕府の信任を得たことにはなるが、また多大の支出を余儀なくされた。さらに同四年には、従来本丸にあった藩主の居館を城内花ノ丸に移転新築した。『日暮硯』は民親とそれを登用した幸弘を大いに顕彰しているが、実際にそれほどの治績をあげたかどうか疑問である。寛政十年(一七九八)致仕。文化十二年(一八一五)八月三日没。七十六歳。法名天真院殿覚源一無大居士。墓は長野市松代町の長国寺にある。